ひろしま美術館

シダネルとマルタン展
特別コラム

学芸員コラム~シダネルを巡る旅~

第17回:まだまだあるシダネルとマルタンの代表作

シダネルとマルタン展

 まもなく、「シダネルとマルタン展」が終了する。コロナ禍の影響が残っているためか、思ったほど客足は伸びていない。ただ、ご覧いただいたお客さんには、大変評判がよい(と思う)。思い切った外出がまだまだ憚られるなか、本当に興味のあるお客さんが集まったからかもしれない。いつもの展覧会よりも、滞留時間(展示室に留まる時間)が長いようにも思われる。

それゆえ、展示室を覗くといつもお客さんがいて、それでも混み合うことなく、それぞれお好きに作品との対話を楽しんでいらっしゃるように見える。マルタンとの二人展ではあったが、展覧会としては、よい展覧会であったと思う。最終的には、来館されたお客さんひとりひとりが判断してくださることであろう。 

このエッセイを始めるとき、最初はシダネルの個展をめざしていたと述べた。それは、次の機会に任せることとなった。シダネルの作品で、まだ日本に紹介されていないものはたくさんある。

とくに、イギリス(今回は一部イギリスからの出品も実現した)、そしてアメリカには、代表作といわれる作品がまだまだたくさん眠っている。 しかも、シダネルは生きていた時代から個人のお金持ちに売れていたため、現在でも個人蔵の作品が多い。

つまり、美術館所有とちがって、なかなか見る機会がない。そういった作品をぜひ日本に、広島に持ってきたい。 そのためには、お客さん、シダネルのファンの皆さんの声が必要である。ぜひ、どしどしお寄せいただきたい。次の「シダネル展」の開催を切望しつつ。(了)

画像:展示風景

第16回:最後の壁画画家 マルタン

シダネルとマルタン展

 公共施設の壁画制作は、一大事業である。そのため、その時代を代表する画家が慎重に選ばれる。その壁画を、生涯にわたり公共建築物12か所を手がけたのが、マルタンであった。 

それだけで、当時彼がいかに重用されていたかがわかる。パリ市役所にはじまり、出身地のトゥールーズ市、ソルボンヌ大学、さらには国の施設である国務院と、そうそうたるものである。同じくサロンで活躍して後に革新を引き起こし、若い画家たちに大きな影響を与えた画家ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824~1898)に次ぐ壁画画家と並び称されている。

公共施設の壁画は、それぞれの機能にまつわる歴史的ないきさつ等を視覚化したものが多い。マルタンの壁画制作の頂点といわれる国務院(内閣の法律諮問機関であるとともに行政裁判所の機能を持つ)の仕事も、公教育美術大臣から依頼されたもので、「勤労」についての壁画12面を描いた。

通常なら「勤労」にまつわる神話などから取られた歴史的なテーマによって仕上げられるものであろうが、マルタンは、あくまで実景と同時代の人物で構成した。雰囲気も、いかにも印象派を思わせる光にあふれた画面を、点描法を主軸にした技法を用いて、仕上げている。現代と過去の栄誉を融合した堂々たる新たな壁画の完成であった。

しかし、20世紀にはいると、美術史に名前を連ねる画家たちは同時代からあえて離れて前衛化する傾向をとり、権威にまみれた公共建築の壁画などに興味を示さなかった(権力の側もそういった画家たちを使うことをためらった)。それゆえ、マルタンは、権威と同時代美術を融合させた最後の壁画制作を行った画家とみなされている。

画像:展示風景

第15回:典型的な風景画家 シダネル

シダネルとマルタン展

 19世紀は風景画の時代であった。

それまで物語絵(宗教画や歴史画)の背景でしかなかった風景が、絵画の主要なテーマとなったのは19世紀はじめのことであった。 

すると時代をおなじくして進展していた市民革命に呼応する形で絵画の民主化が進み、(宗教・歴史や、それを絵解きする様々な決まりを知らなくてもよかったことから)誰にでも分かりやすい風景画が一気に人気を博した。画家たちも、伝統や権威に対する反抗として、この新しいジャンルである風景画に取り組んだ。 

しかし、20世紀を迎えると、絵画(美術一般)のなかに個人個人の思いを込める「表現主義的」なものが重要視され、きれいでわかりやすいだけの風景画から次第に離れていくことになった。

それゆえ、風景画は、19世紀特有の画題と言ってよい。 市民革命の成果としての風景画だけでなく、近代の二大革命のもうひとつ、産業革命の進展とも大きくかかわってきている。産業革命とともに鉄道をはじめとした交通網が整備され、人々の移動が比較的容易にできるようになる。それにともなって、画家たちは各地を移動し、その場所場所の風景や光景を、絵にとどめていくのである。 

シダネルは、その典型的な19世紀の風景画家のひとりであった。季節の良いときは各地を旅してまわり、そこで取材したテーマを冬の間に大きな作品に描いて春の展覧会に備えていた。各地で描く作品は、印象を素早くとどめるために小型の「習作」である場合が多く、アトリエでしっかりと描くのは比較的大型の細部まで描き込まれた完成作が多かった。

今回の展覧会でもその二つのタイプの風景画を見ることができる。

画像:展示風景

第14回:ベル・エポックの画家シダネルとマルタン

シダネルとマルタン展

 フランス近代には、「ベル・エポック(良き時代/美しい時代)」と呼ばれる時期があった。第三共和政に入り世紀末には政治的な安定が確立し、加えて産業革命の成果として消費文化が出現したことによる、より広い市民層の安定した生活が実現した。 

その頂点が1900年のパリ万博であり、この繁栄は、第一次世界大戦まで続く。 

この時期、40歳を迎えて脂の乗りきっていたのが、シダネルやマルタンの世代であった。二人は、ともに各サロンの主要メンバーとして活躍し、さらには新しいグループ「新協会」を立ち上げるなど、まさにパリをはじめフランス、あるいはヨーロッパ全土やアメリカまでを視野に入れた活動をしたことで知られている。 

マルタンは、1900年万博に際して開催された美術展でグランプリを受賞している。シダネルやマルタンは、歴史上もっとも素晴らしい時代だったと今なお回顧されることの多いこの「ベル・エポック」にあって、その花形画家であった。 

もちろん、この時期は、印象派の後(ポスト)を継ぐ画家としてゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、さらにはその影響のもとにフォーヴィスムやキュビスムが興ってくる時代でもあった。 

美術史が示すとおり、今日もっぱらこの時期の動向として語られるのは後者であるが、一方で美術史上では穏やかな画風(サロンの内部で活躍した画家)から忘れられてしまったが、シダネルやマルタンたちの活動が当時人気であったこともまた事実である。 

現在、ようやくそれらが見直されているのであった。

画像:展示風景

第13回:世紀末の画家シダネルとマルタン

シダネルとマルタン展

 シダネルとマルタンは、1860年代に生まれ、40歳前後で世紀の転換期を迎える。自らの画風を確立する30歳代までに世紀末を経験する世代であった。 

「世紀末」とは、世紀の終わりを意味する言葉であるが、西洋文化思潮においては、とくに19世紀末を指す言葉として使われる。20世紀末をすでに経験した今日でもその事情は変わらない。

 19世紀末は、近代の二つの革命、すなわち市民革命と産業革命がすでに実現し、市民による民主主義と経済発展を謳歌する19世紀後半にあって、頂点としての繁栄の後に続く「退廃(デカダンス)」の時代という意味が込められている。 

それに、キリスト教の終末思想が重なり、文化的にはどこか投げやりで、虚無感の広がる独特な状況に陥った。美術史的には、印象派の時代が光り輝く日常をただ美しくカンヴァスに捉えたのに対して、世紀末にははやくも、その中に情緒的な意味を込める芸術が広がり始める。 

それは、象徴主義と言われたり、アンティミスム(親密主義)、アール・ヌーヴォー(新芸術)と言われたりした。シダネルとマルタンは、光を描くという意味で印象派を直接引継ぎながらも、こうした時代の雰囲気を取り入れた抒情的な作品を描くことで知られている。

画像:展示風景

第12回:フランス・アカデミスムの変革期の画家シダネルとマルタン

シダネルとマルタン展

 シダネルもマルタンも、ともにサロン(公式の公募展)で活躍した画家である。 

マルタンは、もっとも保守的な公募展「ル・サロン」で活躍し、最後は、アカデミー(学士院)会員にまでなっている。また、シダネルも、19世紀末ル・サロンから分離した、やや進歩的な「サロン・ナショナル」で活躍し、同じくアカデミー会員となった。いずれも、アカデミスムの中核を歩み続けた画家であった。 

そのためもあってか、両者とも現役時代から絵がよく売れていた。その名声は海外にも届き、フランス以外のヨーロッパ諸国やアメリカ、日本でもその作品が取引された。マルタンは、公共施設等の大型壁画をも任されるほどの大家であった。 

サロンを中心にするアカデミスムは、19世紀以降フランスでは極めて強固なものであった。マルタンたちの所属していたサロンは、今日までも続いている。逆に、この保守的なアカデミスムが強固であったからこそ、それに反発する前衛的な動きが次から次へと出てくる。ただし、前衛的なものがいつまでも異端であれば、保守的なアカデミスムは時代にとり残されていたであろう。 

しかし、フランスのアカデミスムは、徐々に受け入れられていった前衛をそのつど寛容に吸収しつつ変容してきた。1870年代に出てきた印象派は、当初サロンに対抗して生じたことが知られているが、1890年代になるとアカデミスムの側が、広く認知されたこの印象派の画風を積極的に取り入れた。 

まさにシダネルとマルタンが印象派を引き継ぎながらもアカデミスムの画家でありえたのもそのためであった。以後、アカデミスムに反抗した前衛的な動きが美術史の展開として語られるようになるが、その都度柔軟に変容しながらもアカデミスムは今日まで生き続けているのである。

画像:展示風景

第11回:アンティミストの画家シダネルとマルタン

シダネルとマルタン展

 シダネルとマルタンは、ともに「アンティミスト」の画家と呼ばれる。もともとフランス語の形容詞「intime(親密な、親しい)」から名づけられた言葉で、「親密派」と訳される。 

しかし、美術用語はときに翻訳しても意味の分からないものも多いが、これもそのひとつである。 

シダネルもマルタンもすでに大正期日本に紹介されていたことは述べたが、当時の評論家森田亀之輔の言葉が残っている。「日常眼馴れた平凡なものを題材として、其ものの奥に潜む美しき生命を描き現す画人をインチミストと呼ぶ」(『美術新報』1911年第10巻第11号「インチミズムの風景畫家 アンリ・ル・シダネエ」)。 

昔の人は、少ない情報の中、きわめて的確に、しかもわかりやすく、美術状況を捉えていたと感心する。西洋美術は、本来宗教や歴史などその社会に伝わる物語を絵解きするために発達してきた。 

それゆえ、19世紀後半になってようやく身近なものを描き、しかも「奥に潜む美しき生命」をも描きだす、いわゆる世紀末の象徴主義的傾向が加味された、彼らの画風を称して「アンティミスト」と言ったのである。 

森田亀之輔はさらに続けてシダネルの絵のことについて述べている。「彼の風景画には色の絶妙な音楽があるのみならず、其背後に温かき人生の詩がある」(同)。まさに、今回の展覧会では、その世界を体感することができる。

画像:展示風景

第10回:南仏の画家マルタン=真昼の光を描く

シダネルとマルタン展

 マルタンも、シダネル同様に、光を描いた画家であった。 

しかし、展覧会会場で見ていただくと明らかであるが、シダネルとはまた異なる光の世界が展開していることに気づく。シダネルと比べると、マルタンの色彩はその明るさが際立つ。 

モネたち印象派と比較してもさらに明るい。その上で、どこか不思議な感じがする。明るい昼間の光景であるが、なにかこの世のものとは思えない。 身近な世界を描いているにも関わらず、少し距離を感じる。いわば白昼夢の世界であった。シダネルとはまったく別の意味で、光を描くことで、独特の雰囲気を醸し出しているのであった。

 マルタンは、南仏の出身であった。パリを除いては、概ねフランスの南部で生活をし、絵を描いた。この地域は、地中海気候に属し、穏やかな気温の冬と熱い日が続く夏が特徴的である。 

 日差しは強く、周りの自然はつねに純色に輝いている。印象派の微妙な光の世界に馴れた目には、きわめて新鮮かつ強烈に映る。事実、印象派の後の世代の多くの画家たちが南仏に憧れ集まってきたことにも頷ける。 

 ゴッホやゴーギャン、フォーヴィスムの画家たちのように、自らの内面を表出する「表現」にこだわるようになると、微妙な色彩の変化よりも、より直接的な純色が好まれるようになる。そういった意味で、マルタンも南の住人であった。画面は純色が多く用いられる独特の色彩世界を実現している。

 同じ「光の画家」であったが、シダネルとマルタンはまったく別の光の世界があり、それらはまたモネたち印象派の光の世界とも異なっている。その光を体感できる展覧会である。

画像:会場写真

第9回:北仏の画家シダネル=たそがれ時の光を描く

シダネルとマルタン展

 シダネルもマルタンも印象派の系譜に属する「光の画家」であった。しかし、モネやルノワール、ピサロたちの光の世界と、どこか微妙に異なる。今回の展覧会はそれを実感できる。シダネルとマルタンの光の世界を比べることで、モネたちとの違いも体感できるのである。 

シダネルは、モネたちと比べると淡い光、たとえば薄暮の街や月明かりの中の光景、全体にヴェールがかかったような世界を描いた。微妙な光ではあるが、やや暗い中にもさまざまな色のあふれる色彩の世界であった。 

これは、シダネルの育ち、活動の中心であったフランス北部の環境が大きく作用しているといわれている。 パリを含むフランスの北部地域は、海洋性気候に属し、総じて穏やかな気候だが、冷たくじめじめとした湿った冬と穏やかな夏にあっても、天候が変わりやすいのが特徴で、実はからっと晴れた天気はあまり長く続かない。また予想以上に高緯度地域にあるので、晴れた日もかなり日差しが穏やかで、決して光は強くない。 

このような彩度の低い世界だからこそ、微妙な色彩が重要な要素となってくる。シダネルの、微妙な色彩を感覚的に画面に定着させることのできる能力はこの環境に負うところが大きく、その意味で、シダネルは微妙な色彩を巧みに使った色彩家であった。

画像:会場写真(ジェルブロワを描いたシダネルの作品群)

第8回:光の画家シダネルとマルタン 

シダネルとマルタン展

 シダネル(1862年生まれ)も、マルタン(1860年生まれ)も、モネ(1840年生まれ)たち印象派の次の世代にあたる。両者がそれぞれパリに出てきた20歳頃は、1880年代前半にあたり、美術界に激震を起こした印象主義運動の真っただ中にあった。 

当然、彼らも、少なからず影響を受けている。印象派は屋外に出て降り注ぐ光を描いた明るい画風で知られるが、シダネルとマルタンも同じくこの光を描いた。 印象派はこの光を、小さく粗いタッチにして画面に描いていった。

タッチを小さくすることで、画面上に多くの凸凹を作り、それだけでも画面で光が乱反射をおこし明るくなる上に、光に還元された色は見る人それぞれの目に明るいまま直接届き網膜上で微妙な色彩として認識される。 

これを科学的にも追究したのが「点描法」で知られる新印象派のジョルジュ・スーラ(1859年生まれ)やポール・シニャック(1861年生まれ)などであるが、彼らはまさにシダネルとマルタンと同じ世代にあたり、その画風が注目を浴びるのが80年代の半ばであった。

 シダネルとマルタンも、さまざまに変化する画風の中にあって、同じあるいは影響を受けた「点描法」を用いることを特徴としている。屋外で絵を描き、点描法で画面に光を定着させていたという意味で、両者とも、印象派の系譜に属する「光の画家」であった。

画像:会場写真(導入部のマルタンとシダネルの作品)

第7回:古代の町ラバスティド・デュ・ヴェールを見出したマルタン

 マルタンにとってのラバスティド・デュ・ヴェールは、モネにとってのジヴェルニー、シダネルにとってのジェルブロワと同じであった。そこに定着し、庭や母屋を、自らの画題に相応しいものへと変えていった。 

フランスの南西部、トゥールーズ(マルタンの生誕地)の北約100㎞のヴェール川の流れる町 ラバスティド・デュ・ヴェール は、中世の城郭の残るジェルブロワよりさらに古く、先史時代や古代の遺跡に囲まれている。ガロ・ロマーナ(ローマ時代に現在のフランス国内で繁栄した独自文明)の要衝のひとつであった。 

と言っても、実は、今回の展覧会の事前調査でぜひ訪れてみたいと思っていたのだが、コロナ禍のせいで結局行くことができず、観光案内の受け売りである。現在の人口が200人あまりで、ジェルブロワより大きいが、そうはいっても小さな村である。

 マルタンは、この村の高台に「マルケロル」(プロヴァンス語で「岩山の上の家」を意味する造語)と自ら呼んだ地所を所有し、シダネル同様、池やツタ棚など、自分好みの風景を作った。 

古代の趣の残るこの町の風景とともに、この屋敷のなかの光景を数々の作品に描いた。モネ程大きなものではないが、2つの小さな池を持つのが特徴である。ただ、残念なことに、この「マルケロル」は現存していない。

画像:ラバスティド・デュ・ヴェールの絵葉書の写真と地図

第6回:バラの村・フランスで最も美しい村「ジェルブロワ」を見出したシダネル

 シダネルは、フランスで最も美しい村のひとつに選ばれたジェルブロワを見出した画家として知られている。ジェルブロワは、ノルマンディー地方とピカルディ地方のちょうど境界上にあり、中世にはイギリスとフランスの各王国が覇権を争った場所でもあった。いわゆる中世の城塞都市である。

城塞都市といえば大きな街のようだが、城塞そのものが直径1.7km程で、端から端まで歩いて30分もかからない小さな村である。現在の人口も、100人にも満たない。シダネルは、そのほぼ中央に大きな家屋と庭を所有し、自らの好きなように庭を作っていった。 

地方の邸宅といえばモネのジヴェルニーが有名であるが、シダネルもこのモネに倣ってジェルブロワの邸宅を作ったと思われる。また、ジェルブロワは、現在でもバラの街として知られる。毎年6月にはバラ祭りが開かれ、全国から愛好家が訪れる。現在では中世の街並みと街中にあふれるバラとのコントラストで知られるが、実は、このバラを最初に植えたのもシダネルその人であった。

19世紀末にこの街にシダネルがやってきた時には、たんに遺跡に囲まれた廃れた街であった。家を買い取り、庭を作りはじめたのは、モネの庭と同じように、自らの画題を得るためであった。バラを好んだシダネルは、庭にバラを植え、母屋の石壁や窓辺を飾ったのである。 

それを見た近隣の人々もバラを植えはじめた。それが、またたくまにジェルブロワをバラの街に変えた。シダネルは、後に全国バラ協会の会長まで務めている。今日では、全国から、あるいは世界中から多くの人たちが訪れる人気の村となっている。ただし、交通の便が悪く、車で行くしかないため、バラ祭りの時を除けばそれほど混み合っている感じはない。 

近年では(コロナ禍の前は)、画家シダネルにゆかりの街とは知らずに日本から訪れる人も増えていたが、多くはパリから観光バスで訪れる場合が多いようだ。シダネルの村と知って訪れると、またひときわその趣に浸ることができるだろう。ちなみに、シダネルの庭は、有料であるが一般に開放されている。

画像:ジェルブロワの村の写真

第5回:ヤンさんがこだわったシダネルとマルタンの二人展

シダネルとマルタン展

 日本で最初のシダネル展(2011-12年)は、成功裏に終わった。ほとんど知名度がない作家の展覧会にしては多くのお客さんに見ていただくことができた。なにより、どの展覧会場でも、来館者には大変評判がよかった。それゆえ、この展覧会直後から、第2弾をやって欲しいとの声をいただいていた。 

最初の展覧会は、フランス国内の個人と美術館からの出品が中心であった。実は、シダネルの秀作の多くは、イギリスとアメリカに所蔵されている。次はそれらをぜひと考えながら、国を増やすとどうしても経費がかかる。ようやく人気がではじめたといっても、まだまだ巨額の予算が必要な展覧会をやるには力不足であった。 

それでもあきらめきれず、ヤンさんとも何度も相談した。その結果、シダネルとその仲間たちの展覧会「最後の印象派展」(2015-16年、国内7会場巡回)の開催にこぎつけた。シダネルの出品作品は、7点であった。 

この展覧会も非常に魅力的であったし意義深いものであったが、シダネルのファンとしては、やや消化不足であった。それゆえ、その後もシダネルの個展の開催を模索し、ヤンさんとも相談した。 

その中で出てきたのが、今回のマルタンとの二人展である。ヤンさんは、マルタンも日本でほとんど紹介されていないこと、シダネルとマルタンは生涯の友情関係を結び、二人の作品を並べて見る事でシダネルがより際立つと主張した。個展に対するこだわりは捨てきれなかったが、ヤンさんの熱意に負けて今回の展覧会となった。 

しかし、展示を終えて会場を見たとき、ヤンさんの言っていることがよくわかった。大変面白い展覧会であるし、シダネルのファンにも充分楽しんでいただけるはずである。シダネル作品は、ヨーロッパから37点、当館だけは所蔵の3点も同会場で見ることができる。今回はコロナ禍でヤンさんの来日は実現できなかったが、オンラインで会場を見せて回ったとき、その照れを含んだ満面の笑みを見せてくれた。

画像:「シダネルとマルタン展」初日の様子

第4回:シダネルの曾孫ヤンさんとの出会いがシダネル展のはじまり

シダネルとマルタン展

  一般にはほとんど知られていないシダネルであったが、当館ではなぜか当初から人気があった。それで以前から、この作家の展覧会ができないかと、ことあるごとに話題に出していた。館内はもちろん、他館の学芸員とも展覧会ができないかと話をしたのである。 

しかし、やはり知名度のなさが災いしていっこうに進展しなかった。そんななか、以前から付き合いのある展覧会コーディネーター(企画協力者)に、フランスでシダネル展開催のキーパーソンとなる人(研究者、所蔵者等)を探してもらった。それで見つけたのが、シダネルの曾孫にあたるヤンさんであった。彼自身、フリーの美術史家でもあった。

 はじめてパリのカフェで会ったことを今でもよく覚えている。 フランス人(とくに美術業界)の人には珍しく、ちょっと照れも入った満面の笑みで迎えてくれた。見た目は華奢な芸術家タイプであった。日本でシダネルの個展をやりたい、と切り出すと、最初は「えっ、何? 展覧会?」と驚いたようだった。出身国フランスでもほとんど展覧会などやられていなかった頃に、遠く離れた日本での個展の提案である。無理もないことであった。 

それでも、きっと日本でも人気があがるはずだと説得した。もちろん、彼自身も反対のはずはなく、その後いろいろアイデアを出していただき、実現に向けて協力をしてくれた。そして、3年程たった2011-12年、日本ではじめてのシダネル展(当館を含む国内6会場巡回)が実現した。 

ヨーロッパから64点の出品に、当時知られていた国内美術館に所蔵されていた8点も加えた総点数72点の展覧会が実現した。ヤンさんとも広島で再会し、座談会で曾祖父について熱く語っていただいた。あの照れの入った笑みを再び見ることができた。その後、ヤンさんは、いくつもの展覧会を、フランスをはじめヨーロッパで企画開催している。

画像:ひろしま美術館で作品をチェックするヤンさん(左) 2012年撮影

第3回:当時(大正期)すでに日本に紹介されていたシダネルとマルタン

 シダネルとマルタンが、現役当時、フランス国内で人気の作家であったことは、前回お話した。実は、それはフランスや欧米諸国に限ったことではなかった。日本でもよく知られていたのである。

明治末から大正期にかけて「美術新報」という雑誌があった。今日でいうと「芸術新潮」あるいは「美術手帖」といった人気の美術雑誌である。現在は、インターネットで気軽に情報を得ることができるが、当時はまだまだ情報の伝達速度が遅い。また、海外に気軽に行けるような状況になかった(コロナ下になって、海外に行けないことが、西洋および海外美術を専門にしている者にとっていかに不自由なことなのか実感しているところではあるが、当時はそれば普通であった)。それゆえ、現在よりもこの美術雑誌の情報が、美術を志すものにとって、どれだけ重要だったから想像することができるであろう。

その「美術新報」に、シダネルとマルタンはともに紹介されている。シダネルは、「泰西現代巨匠伝叢」というシリーズ記事のなかで紹介されているし、マルタンも大正2年10月号で斎藤豊作というフランス留学経験のある洋画家の言葉として紹介されている。そのほか、二人とも、「日仏芸術」および「仏展」という、当時フランスで活躍する画家の作品を紹介するとともに実際に日本に持ってきて販売していた団体があったが、それの常連であった。人気もあり、実際に日本に輸入されていたのである。

しかし、現在それらの作品はほとんど知られていない。日本国内の美術館が所蔵するシダネルの作品は10点ほどで、マルタンも同じくらいの数が確認されているが、それらの作品はとほんど第二次世界大戦後の収集で、近年日本に入ってきたことが分かっている。大正期から昭和初期の間に輸入された作品があるはずであるが、確認できていない。戦争で焼けたのかもしれないが、どこかに眠っていてもおかしくないのである。当館では、そういったシダネルやマルタンの作品を探している。心当たりの方はぜひご連絡いただきたい。もしかしたら皆さんの蔵や納屋のなかに、当時の名作が眠っているかもしれない。

画像:「美術新報」掲載写真、大和証券の写真

第2回:当時の人気作家シダネルとマルタン

シダネルとマルタン展

 シダネル(1862-1939)とマルタン(1860-1943)は、今日でこそ、まだまだ知名度の低い作家であるが、現役の頃は、人気作家であった。現在著名な作家は、若い頃には作品はほとんど売れないのが定番のように語られることが多い。

ゴッホは生存中(ただし、37歳の若さで自殺している)、1点しか作品が売れなかったことは有名な話であるし、印象派の画家、たとえばモネやルノワールにしても、当初はまったく作品が売れなかったどころか、評論家はもちろん、美術愛好家からも嘲笑の対象となった。

それでも、モネやルノワールは、画壇からさんざん非難された15年から20年後には徐々に評価されるようになり、晩年には人気作家となっている。モネは、ジヴェルニーに大邸宅を構えるし、ルノワールは南仏のカーニュに別荘をもち、いずれもフランス各地から、あるいは世界から若い画家や愛好家が、彼らを訪ねてきたことは有名な話である。

日本から彼らを訪ねた作家も知られている。児島虎次郎は、モネを訪ねて直接作品を購入した(今日の大原美術館の所蔵作品となっている)し、梅原龍三郎は、カーニュにルノワールを訪ねて私淑した。ゴッホも、もう10年がまんして生きていれば、作品が飛ぶように売れたであろうに。

そんな状況のなか、シダネルやマルタンは、当初から画壇で注目を浴び、生涯を通じて人気作家であり続けた。国内フランスはもとより、ヨーロッパ諸国をはじめアメリカで繰り返し紹介され、それぞれ人気を博していた。つねに画壇の中心にあって、最後はともにサロンを代表する画家となり、アカデミー(学士院)の会員、シダネルにいたっては同会長にまで就任した画家である。日本で例えるとともに広島ゆかりの作家で全国的に知られていた平山郁夫と奥田元宋に匹敵する。ともに既に鬼籍に入られて久しいが、現役時代には奥田元宋は日展を代表し、平山郁夫は院展を代表して、ともに日本美術界の重鎮として活躍していた。その意味で、シダネルはサロン・ナショナル(サロンの一つ)を代表し、マルタンはル・サロンを代表していた。

そうした二人であったが、現役時代に有名で、作品もよく売れていたにも関わらず、没後は、あまりにも穏やかな画風が災いし、マティスやピカソなど前衛的な作家が活躍するなか、日本だけでなく本国フランスでも徐々に忘れさられていった。しかし、それが近年少しずつではあるが再評価されるようになり、作品も美術マーケットを中心に徐々に売れはじめている。それは、コロナをはじめ世の中が先の読めない漠然とした不安のなか、どこかほっとする二人の作品であればこその結果かもしれない。いまだからこそ、ぜひご覧いただきたい。

画像:「シダネルとマルタン展」ポスター

第1回:人気投票の常連シダネル

シダネルとマルタン展

 待望の「シダネル展」がはじまった。「待望」と言っても、「シダネルって聞いたことないよ」と言われるかもしれない。確かに、日本では、あるいは世界でも、まだまだ知名度は低い。それでも、人気投票をすると必ず上位に名を連ねる隠れた人気作家である。「アンリ・ル・シダネル」は、19世紀末から20世紀初頭にフランスで活躍した画家で、フランス近代美術のコレクションで知られる当館は彼の作品を所蔵している。

 2018年所蔵作品で人気投票をした。当館の名作、ゴッホ≪ドービニーの庭≫がダントツ人気であるが、モネやルノワールなど著名な作家のよく知られた作品を抑えて、堂々の3位に入った。当館における絵葉書の販売実績も5位以内、すくなくとも10位以内には入る。これは近年にはじまったことではない。開館(1978年)当初から、見られる傾向である。

よく日本の皆さんは、所蔵する、あるいは展覧される作家の知名度によって美術館に行く、と言われる。美術館に勤めていると、新しい作家、つまり知名度の低い作家を紹介したいと考えるものだが、なかなかお客さんが集まらないので、どうしても知名度の高い作家の展覧会からやっていくことになる(そうはいっても、人気作家は、展覧会をやるのに経費が莫大にかかるので、地方の中堅の美術館では、それも難しくなっている)。

だが、この人気投票の結果からも、美術館に来て作品をご覧になるお客さんは、知名度ではなく、素直にご自身の目でご覧いただいていると、いつもホッとする。その代表格が「シダネル」なのである。だから、本当の意味の「待望」の展覧会であった。

今回は、当館に所蔵作品はないがシダネルと同世代の友人「アンリ・マルタン」との二人展であるが、シダネルの出品数は、約40点に上り、日本で開かれた「シダネル展」としては、2011-12年に日本ではじめて開催され、当館にも巡回した「シダネル展」に次ぐ規模の展覧会である。その作品は、特別出品として同じ展示室に並べた当館所蔵の3点を除けば、すべて海外から借りてきた作品である。このコロナ下において、出身国フランスをはじめベルギー、オランダ、イギリスからの出品が実現した。ぜひご期待願いたい。

画像:アンリ・ル・シダネル ≪離れ屋≫ 1927年